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執筆者の写真尾飛良幸DMT

1000年後にも勇気を与える「想い」がある

こんにちは。尾飛良幸です。


先日、以前にお世話になった方の、訃報が届きました。

それもすでに、数年前にお亡くなりになっていた、とのことでした。


ある分野で、非常に著名な方で、お弟子さんもたくさんいらっしゃいました。


とても残念なお知らせである上に、特に詳細もネット上に上がってないので、どのような状況だったかも、知ることができません。


心よりご冥福をお祈りしました。


その方は、数多くの「考え方」を、多くのお弟子さんに残していかれました。

それは今でも、その方々のスキルとして、大いに活かされ、本当に素晴らしい功績となっています。



でもね、そのかたが、人生の帰路や分岐点、困難や喜ばしい場面に直面した時に感じた、「人間としての本音の『想い』」は、ほとんど残っていませんでした。



「考え方」はある程度学習すれば、身に付く部分は多いと思います。

でも「こういう時に、どんな『想い』でいたのか」という心の部分を知ろうとしても、それを残している人は、非常に少ないようです。


もちろん「日記」などで、残している場合はありますが、残された人たちが、その膨大な日記を読み返すのはとても大変です。


つまり「『想い』は残しにくいもの」と、私は思っているんです。


 



平安時代〜鎌倉時代に作られた「百人一首」は、そういう意味でも、とても価値のあるものだと思います。

年老いて友達が亡くなってしまう悲しみや、恋人を想う気持ちが、1000年以上経った今でも共感を呼んでいるのは、「考え方」ではなく「想い」だったからではないでしょうか。


「考え方」と「想い」は、似ているようで、全然性質が違います。


人が生きている以上、時代によって「考え方」の変化はあっても「人としての『想い』」は、いつの時代も普遍であって、とても大事な部分だと思うんですね。


ではなぜ、百人一首は現在に残ったのか。


それは専門家の方々が、たくさん研究されているので、真相はそちらにお任せするとして、私の考えでは「パッケージ化したから」ではないかと考えています。


和歌という形式に則って、100枚に絞って「パッケージ化」させたことで、一般化しやすくなったと思うんです。



例えば現在でも、SNSに毎日「想い」をアップされている方は、とても多くいます。

それを毎日読めば、そのかたの想いを知ることができますが、さらにそれが「パッケージ化」されると、全くその人を知らない人でも、「想い」を受け取りやすくなります。


生きた証、生きてる時に感じていた『想い』を集めた「エッセイ集」みたいな感じでしょうか。


お弟子さんや、ファンが多い方なら、この「エッセイ集」はたくさんの方が読んでくれると思います。

でも、そんなファンがいる方ばかりではありません。


そうなると、そのエッセイ集は、その人によほど興味がある人しか、読んでくれないものとなり、結局世の中に埋もれた存在となってしまいます。


 


その点「歌」は、ファンの有無にかかわらず、どなたでも無条件に聞いてくれるという、強みがあります。「歌」と言うだけで誰もが興味を持ってくれるという、ある意味「市民権」を得ているわけです。

しかも、歌が下手でも「想い」があれば、不思議と共感を呼びます。


つまり『歌にすると途端に魔法がかかる』ということです。



自分が、懸命に生きている中で感じた「想い」を歌という「パッケージ化」にすることで、自分のお弟子さん、お子さん、お友達だけではなく、もしかしたら1000年先の未来人が、自分の「想い」に共感し、勇気をもらい、自信を取り戻し、人生の一歩をまた踏み出すかもしれません。

百人一首の存在のように。



人は必ず、その人だけが持っている「想い」とそれを表現する「言葉」と「メロディ」が、必ずあるんです。


そしてそれが「歌」になり、誰かの「勇気」になる。

それって、凄いロマン!


知人の訃報を聞き、やはりそういった「生きた証」「生きてる時に感じていた『想い』」を、「歌」にして残すことは、本当に大切なんだと痛感したと同時に、そういった想いを歌にする活動で、私の持っているスキルの全てを活かせたらいいな、と思った次第です。




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